沖縄戦とサヨク、そして鬼畜米英 〜6月23日は「沖縄慰霊の日」ではなく、「オキナワ解放記念日」らしい〜 1945年3月、敗色濃厚な日本軍は、連合軍が迫りつつあった台湾及び南西諸島の防衛準備に手こずっていた。陸軍第32軍司令官牛島満中将は沖縄本島及び先島諸島に11万人以上の兵力をかき集めたが、所詮は寄せ集めであり、また現地召集琉球人の兵隊は日本軍人との意思疎通もままならず、前途に大いなる不安が生じていた。 1945年3月、連合軍は「アイスバーグ作戦」を発令、総計55万人の大兵力を南西諸島に差し向けた。1,777隻に及ぶ空前絶後の大艦隊が集結した。この作戦には、日本海軍によりシンガポールやセイロン島から追い出されていた英海軍が、5隻の航空母艦を中心とした機動部隊を派遣して来た。英海軍機動部隊は、米軍の上陸作戦を助ける為の陽動作戦として、先島諸島への接近を開始した。在台湾陸海軍航空部隊は特別攻撃隊と雷撃隊を編成して、英機動部隊へ猛攻撃を敢行、特攻機が次々と突入、英海軍航空母艦の全てが損傷を受けるという大戦果をもたらした。恐れを成した英機動部隊は直ちに戦線を離脱、米軍の笑い物になった。 だが、米軍は別格である。艦載機による爆撃と戦艦や巡洋艦による艦砲射撃が徹底して行われ、海兵隊がいつものように先陣を切った上で沖縄本島西岸に橋頭堡を築いた後、主力の陸軍部隊も上陸して来た。牛島司令官率いる日本陸軍は徹底して持久ゲリラ戦を展開し、米軍に対して塹壕からの肉薄攻撃を敢行、米軍兵士の中には発狂する者まで現れ始めた。だが、物量に勝る米軍は次第に日本陸軍や海軍陸戦隊を圧倒、日本軍を沖縄本島南部へ追い詰めた。数年前にオキナワのサヨク報道機関の不始末により焼失した首里城は、その地下に日本陸軍司令部があった為に米軍の集中砲火を浴びて、この時もあえなく焼失した。 陸軍航空隊は知覧及び都城飛行場より、そして海軍航空隊は鹿屋航空基地より、「菊水作戦」による特別攻撃隊を1千機以上出撃させた。更に戦艦大和率いる水上特攻艦隊も出撃したが、米海軍艦載機の猛攻撃を受けて、大和はあえない最期を迎えた。海軍の「人間爆弾」、ロケット特別攻撃機である櫻花一一型を懸架した一式陸上攻撃機ニ四型も多数出撃したが、重さ2tの櫻花を吊るした爆撃機では速度も出ず米海軍戦闘機の的になるばかりで、戦果は上がらなかった。陸軍による嘉手納飛行場への強行着陸後の強襲作戦も実らなかった。 1945年6月23日、牛島司令官の自決により日本軍の組織的抵抗は止み、ここに米軍によるオキナワ占領が確定した。この後も小規模な戦闘が続き、実際の停戦は日本の無条件降伏後の9月までずれ込むこととなったが、現在ではこの6月23日は「沖縄慰霊の日」と定められている。 ここで問題になるのは、一部琉球人とニッポン低国在住サヨクの存在だ。サヨクが見苦しいのは世の常だが、「オキナワ」に於けるサヨク腐臭は尋常ではない。 6月23日までは「帝國臣民」として日本軍と共に戦う姿勢を見せていた琉球人達だが、その日を境に米軍を「解放軍」として歓迎し、更には日本軍を、琉球人を苦しめ続けた「帝國主義の先兵」と決め付け始めた。要は、8月15日を「光復節」として「日帝からの解放」を祝っている朝鮮人と何ら変わりないのである。日本の敗戦後も日本語と日本文化を守っていた台湾人とは対極を成すものである。米軍もさすがで、沖縄本島上陸作戦前から琉球民間人向けの7万食を特別に用意して慰撫、更に洗脳教育を開始した。 6月23日より、琉球人達は米軍によって解放され、日帝による圧政に苦しめられ続けた、そして哀れな戦争被害者と認定されたのだ。沖縄本島地上戦に於ける日本軍による「数々の蛮行」が喧伝される事となり、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の悲劇が殊更強調されるようになった。その情報戦にオキナワとニッポン低国からのサヨクが合流して、現代にも続く「オキナワ平和運動」に於ける金品のタカリが始まったのだ。 作者は沖縄本島地上戦については個人的に研究して来たが、確かに悲惨極まりない地獄絵図であった事は間違いないと思う。経験した者でなければ、あの地獄について語る資格も無いだろう。一部日本軍将兵による蛮行も間違いなくあっただろう。 だが、サヨク共の言説で気に入らないのは、そのオキナワを守る為にどれだけの若い日本人が死んだのかを殆ど無視している点だ。17歳の航空兵が特攻機に乗る前に、仔犬を抱っこしながら笑顔を見せている写真がある。知覧特攻平和記念館やネット上で見られるが、非常に胸の痛む写真である。幼顔の航空兵が、これから死ぬのを分かっていながら、笑顔で写真に収まっているのである。オキナワとは縁もゆかりも無い若者が、命令により敵艦船に無謀な突入をするのである。 特攻機の命中率は多く見積もっても15%程度であったとされる。米海軍の新兵器である近接信管、通称「VT信管」装備の対空射撃と艦載機F6F-5ヘルキャットの迎撃により、殆どの特攻機は米艦船に接近する事すら困難だったのだ。仮に命中しても、駆逐艦の撃沈は可能でも、正規航空母艦の撃沈はまず不可能だった。菊水作戦に駆り出された多くの若者達は、正にオキナワの為の捨て駒であった。本当に気の毒でならない。 そして忘れてはならないのは、オキナワの為の特攻作戦には、多数の朝鮮人や台湾人将兵が含まれていた事だった。勿論、当時の彼らは「日本人」であった為、日本人として死んだ事に間違いは無い。では、果たして琉球人の特攻隊員は存在したのだろうか?当時の琉球人は教育水準に非常に難があり、また日本語能力にも問題があった為、少なくとも航空機操縦士になる事など、およそ無理な話であった。何でもかんでも「可哀想で差別されて来た琉球人」と言ったサヨク論調は、どう考えても日本国内のエセ同和問題とその本質に変わりはないのである。琉球人のみが被害者であるとするサヨクの論調には反吐が出る。 いつものように話が逸れる。戦後、
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沖縄戦とサヨク、そして鬼畜米英
〜6月23日は「沖縄慰霊の日」ではなく、「オキナワ解放記念日」らしい〜
1945年3月、敗色濃厚な日本軍は、連合軍が迫りつつあった台湾及び南西諸島の防衛準備に手こずっていた。陸軍第32軍司令官牛島満中将は沖縄本島及び先島諸島に11万人以上の兵力をかき集めたが、所詮は寄せ集めであり、また現地召集琉球人の兵隊は日本軍人との意思疎通もままならず、前途に大いなる不安が生じていた。
1945年3月、連合軍は「アイスバーグ作戦」を発令、総計55万人の大兵力を南西諸島に差し向けた。1,777隻に及ぶ空前絶後の大艦隊が集結した。この作戦には、日本海軍によりシンガポールやセイロン島から追い出されていた英海軍が、5隻の航空母艦を中心とした機動部隊を派遣して来た。英海軍機動部隊は、米軍の上陸作戦を助ける為の陽動作戦として、先島諸島への接近を開始した。在台湾陸海軍航空部隊は特別攻撃隊と雷撃隊を編成して、英機動部隊へ猛攻撃を敢行、特攻機が次々と突入、英海軍航空母艦の全てが損傷を受けるという大戦果をもたらした。恐れを成した英機動部隊は直ちに戦線を離脱、米軍の笑い物になった。
だが、米軍は別格である。艦載機による爆撃と戦艦や巡洋艦による艦砲射撃が徹底して行われ、海兵隊がいつものように先陣を切った上で沖縄本島西岸に橋頭堡を築いた後、主力の陸軍部隊も上陸して来た。牛島司令官率いる日本陸軍は徹底して持久ゲリラ戦を展開し、米軍に対して塹壕からの肉薄攻撃を敢行、米軍兵士の中には発狂する者まで現れ始めた。だが、物量に勝る米軍は次第に日本陸軍や海軍陸戦隊を圧倒、日本軍を沖縄本島南部へ追い詰めた。数年前にオキナワのサヨク報道機関の不始末により焼失した首里城は、その地下に日本陸軍司令部があった為に米軍の集中砲火を浴びて、この時もあえなく焼失した。
陸軍航空隊は知覧及び都城飛行場より、そして海軍航空隊は鹿屋航空基地より、「菊水作戦」による特別攻撃隊を1千機以上出撃させた。更に戦艦大和率いる水上特攻艦隊も出撃したが、米海軍艦載機の猛攻撃を受けて、大和はあえない最期を迎えた。海軍の「人間爆弾」、ロケット特別攻撃機である櫻花一一型を懸架した一式陸上攻撃機ニ四型も多数出撃したが、重さ2tの櫻花を吊るした爆撃機では速度も出ず米海軍戦闘機の的になるばかりで、戦果は上がらなかった。陸軍による嘉手納飛行場への強行着陸後の強襲作戦も実らなかった。
1945年6月23日、牛島司令官の自決により日本軍の組織的抵抗は止み、ここに米軍によるオキナワ占領が確定した。この後も小規模な戦闘が続き、実際の停戦は日本の無条件降伏後の9月までずれ込むこととなったが、現在ではこの6月23日は「沖縄慰霊の日」と定められている。
ここで問題になるのは、一部琉球人とニッポン低国在住サヨクの存在だ。サヨクが見苦しいのは世の常だが、「オキナワ」に於けるサヨク腐臭は尋常ではない。
6月23日までは「帝國臣民」として日本軍と共に戦う姿勢を見せていた琉球人達だが、その日を境に米軍を「解放軍」として歓迎し、更には日本軍を、琉球人を苦しめ続けた「帝國主義の先兵」と決め付け始めた。要は、8月15日を「光復節」として「日帝からの解放」を祝っている朝鮮人と何ら変わりないのである。日本の敗戦後も日本語と日本文化を守っていた台湾人とは対極を成すものである。米軍もさすがで、沖縄本島上陸作戦前から琉球民間人向けの7万食を特別に用意して慰撫、更に洗脳教育を開始した。
6月23日より、琉球人達は米軍によって解放され、日帝による圧政に苦しめられ続けた、そして哀れな戦争被害者と認定されたのだ。沖縄本島地上戦に於ける日本軍による「数々の蛮行」が喧伝される事となり、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の悲劇が殊更強調されるようになった。その情報戦にオキナワとニッポン低国からのサヨクが合流して、現代にも続く「オキナワ平和運動」に於ける金品のタカリが始まったのだ。
作者は沖縄本島地上戦については個人的に研究して来たが、確かに悲惨極まりない地獄絵図であった事は間違いないと思う。経験した者でなければ、あの地獄について語る資格も無いだろう。一部日本軍将兵による蛮行も間違いなくあっただろう。
だが、サヨク共の言説で気に入らないのは、そのオキナワを守る為にどれだけの若い日本人が死んだのかを殆ど無視している点だ。17歳の航空兵が特攻機に乗る前に、仔犬を抱っこしながら笑顔を見せている写真がある。知覧特攻平和記念館やネット上で見られるが、非常に胸の痛む写真である。幼顔の航空兵が、これから死ぬのを分かっていながら、笑顔で写真に収まっているのである。オキナワとは縁もゆかりも無い若者が、命令により敵艦船に無謀な突入をするのである。
特攻機の命中率は多く見積もっても15%程度であったとされる。米海軍の新兵器である近接信管、通称「VT信管」装備の対空射撃と艦載機F6F-5ヘルキャットの迎撃により、殆どの特攻機は米艦船に接近する事すら困難だったのだ。仮に命中しても、駆逐艦の撃沈は可能でも、正規航空母艦の撃沈はまず不可能だった。菊水作戦に駆り出された多くの若者達は、正にオキナワの為の捨て駒であった。本当に気の毒でならない。
そして忘れてはならないのは、オキナワの為の特攻作戦には、多数の朝鮮人や台湾人将兵が含まれていた事だった。勿論、当時の彼らは「日本人」であった為、日本人として死んだ事に間違いは無い。では、果たして琉球人の特攻隊員は存在したのだろうか?当時の琉球人は教育水準に非常に難があり、また日本語能力にも問題があった為、少なくとも航空機操縦士になる事など、およそ無理な話であった。何でもかんでも「可哀想で差別されて来た琉球人」と言ったサヨク論調は、どう考えても日本国内のエセ同和問題とその本質に変わりはないのである。琉球人のみが被害者であるとするサヨクの論調には反吐が出る。
いつものように話が逸れる。戦後、