国際情勢ヨタ話〜昔日の日本航空機産業 〜今や、飛行機を作れず〜

2023/09/24 04:13
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若い世代の方々は、かつての日本は航空先進国だったと信じられるだろうか?今回も太平洋戦争史から、今のニッポン低国が如何にダメになったかの事例をご紹介したい。ちなみに日本初の航空機操縦士は、清水徳川家八代当主の徳川好敏公である。フランス語堪能な秀才で、最終的に陸軍中将で航空士官学校長となっている。

第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)秋、中国大陸の制空権は米陸軍に握られ、米陸軍機が中国の空を我が物顔で飛び回っていた。中国・成都市にある飛行場から、最新型長距離戦略爆撃機B-29スーパーフォートレスが九州の八幡製鉄所などの軍需施設に対する爆撃を開始していた。

この時期まで中国大陸で米陸軍航空部隊と死闘を演じていたのは、陸軍一式戦闘機隼二型(米軍名オスカー)と二式戦闘機鍾馗二型(トージョー)であった。両機共に中島飛行機が送り出した戦闘機で、隼が運動性能を活かした空中戦、鍾馗が高速を活かした一撃離脱戦法を得意とし、両機で役割分担をしていた。陸軍航空隊は頑迷な地上部隊や海軍と異なり非常に柔軟性があり、欧米の戦法などをよく研究した上で、従来の日本式の戦い方を改めていた。原則、一対一の格闘戦を行わず、集団による一撃離脱戦法か、米軍機の苦手な低空低速域に於ける空中戦を徹底していた。その為か、ビルマ航空戦においては、数に勝る米英連合航空部隊相手に互角以上の戦いを演じていた。海軍贔屓の日本人にバカにされる事の多かった一式戦闘機隼は、英空軍スピットファイアMk.5や米陸軍P-40シリーズなどとの戦いでは寧ろ優位に立っていた。有名な海軍の零式艦上戦闘機(零戦、米軍名ジーク、三二型はハンプ)よりも遥かに戦果も大きかった。

日本陸軍は

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